歴史を勉強する意義についてもう少し考える

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話題を引っ張っていますが、歴史の勉強について。
そもそも、意味があるのか?覚えてどうする?
中学生に限らず、歴史を勉強するとなるとこのレベルで疑問に感じる人も多いことと思うのです。

国語、英語、数学、理科については、それ自体も、引き続き研究されている各学問分野も、人類社会において重大な役割を果たしていると言っていいでしょう。
従って、その基本を学校で学ぶことは理にかなっていると思います。

社会のうちの地理、公民もまた、流通や法律に関係して現代の人類社会で重要な役割を果たしています。
実際に知識として将来役に立つかは未知数ではあるものの、少なくとも、現在の現実がこうだ、ということを伝えられているわけで、学ぶ意義を感じない、とはなりにくい。

だがしかし、歴史です。
これを学ぶ意義を伝えるのは、本当に難しい。地理、公民で学ぶ今現在がなぜこうなっているのか、その理由を歴史から説明することはできるのですが、勉強する側からしたら余計な情報が増えてしまうようにも感じるでしょう。

ところで。実は、各種の専門家にとって、自分の専門分野の歴史を知ることは当たり前だったりします。
私は数学が専門ですから、数学史というものは当然勉強しました。
何のためにか、というと、一番実用的なのは、過去の論文にあたって調べるときですね。この理論を作ったのはあの国のあの人、あの時代だから・・・なんて感じです。この作業は、まあ、数学史を知っていればいるだけ、効率よくできます。
それに、過去の大数学者たちが取り組んだ問題やその回答に至る考え方というのは、自分で問題を考えるときにもおおいに参考になるものです。
でもね。これ、学校で習う歴史ではないんだよなぁ。高校で世界史を勉強しましたけど、アメンホテプ4世なんて知っていてもいなくても、心の底からどうでもいい。
以下でいろいろ検討しますが、結論として中学、高校で歴史を学ぶのは勉強の練習というのが正直なところです。あるいは、好きな子にとっては趣味。
音楽や美術、体育と同じで、教養の一種。
勉強しないといけない必然性は低い。

ではなぜ学校でわざわざ教えるのか?
本題からは外れますが、この点については私なりには答えがはっきりしているので、ちょっと伝えさせていただきたい。
人にはですね、向き・不向きがあるのです。興味といってもいいです。興味のあることに関しては、難しくてもできるようになりたい、わかりたい、と思える。
大人たちが子供に勉強させたい理由の一つは、将来より良い社会を作って欲しいから。そのために今ある知識を、私であれば特に数学や自然科学を伝えたいわけです。
はじめから興味を持ってくれる子には苦労しませんが、どうしても計算ができない子もいる。どれだけ繰り返しても割合の計算ができない。
そんな子でも、もしかすると歴史の話題の中でなら話を聞いてくれるかもしれない。難しいと感じても、数学や理科よりはなんとか理解しようと努力してくれるかもしれない。
食塩の濃度を理解する気がなくても、年貢が5割だ、と聞けばどういうことだ、と気にしてくれる可能性がある。これをきっかけに、割合の概念そのものを理解するかもしれない。

そういった可能性にかけて、学校ではとにかく幅広くいろいろな知識に触れさせようとしているのです。・・・と、少なくとも私は思っています。

もう1点。歴史はなんだかんだ言って、覚えることが多いです。これはもう、しょうがない。
受験用の参考書なんかには、覚えるだけじゃない、なんてうたうものもありますが、そんなはずはない。覚えたら勉強は終わりです。大きな流れを把握するだとか、似たものをグループ化するとか、覚える工夫のことを「覚えるだけじゃない」と言い換えているだけで、現実問題としてはとにかく覚えるだけ。
この大量の情報を、いかにして覚えるか。そのための努力、工夫が将来生きてくる可能性があります。
こういう、「覚える」という作業のトレーニング、それが学校で習う歴史です。

まあ、完全に大人の都合です。中にはトレーニングという言葉に納得して勉強する生徒もいますが。

さて、ここでまず一応断っておきたいのですが、私個人としては学校で習うような歴史も好きです。勉強するのも楽しいです。
なぜ楽しいかと言えば、知らなかったことを知ること、それを覚えられたということ、問題集の問題が解けるということ、その喜びだと思います。
これは学習がうまくいったときに人が抱く普通の感覚で、勉強が好きだ、という場合、基本的にはこの感覚が好きだ、ということになるでしょう。
分野を問わずなぜ勉強するのか、という問いに対する一つの普遍的な答えでもありますね。勉強して知ること、覚えること自体が喜びだ、という訳です。

ただ、当然ながらこの答えに納得する中学生・高校生はいません。
というか、この喜びを知っていて、普段から味わいながら勉強しているような学生は、そもそも「なぜ勉強するのか」なんて問いかけないでしょうから、なぜ勉強するのか知りたい学生にとって、納得できる答えとは言えないでしょう。
実際のところ歴史学者や学校の社会の先生方も悩むようで、歴史関係の本や受験用の参考書には、何らかの形でこの疑問に答えようする記述が見られることが多いです。
いくつか取り上げてみましょう。

1.歴史を学ぶことで、過去を知り、現代の問題の原因がわかるし、これからの未来に生かせる。

一番標準的で、ある意味模範解答、と言えるもののように思えます。
現代社会の情勢を歴史から説明する、という趣旨の本も数多く出ています。 でもなぁ。原因を知っても、対処方法は全くわからないんですよね。むしろ、民族同士の血を血で洗う抗争の末の現代、なんて状況だと、歴史を知ったことで却ってもう解決の糸口も見つからないよね、と思えてしまうこともあります。
未来にもね。どう生かせるかなぁ。外国の、それも昔であればあるほど、我々が今生きている社会とはかけ離れています。
アメンホテプ4世とか。他にも例えば、秦の始皇帝が万里の長城を築いたそうですが。北方民族の侵入を防ぐため、らしいですよ。どのくらいの費用と時間がかかったのか、いろいろ推定値も出ていることでしょう。一説によると30万人を動員して総工費500億円、6年で出来たとか。
案外安い?まあ紀元前のことですから、奴隷みたいな人々をこき使って人件費なんてほとんど払ってないかもですしね。
さあ、この知識をこれからの未来に役立てること、出来ますかね?

2.歴史を学ぶことで戦争を回避できる。

主旨は1.に近いものと思いますが、過去の戦争の悲惨さを知ることで、もう戦争が起きないようにできる、らしいです。
思うに世界中どの国でも、政治家って、歴史を学んでますよね。多分、我々よりよっぽど勉強してきただろうと思います。
その割に、戦争が起きてませんか?ごく近いところでは、ロシアがウクライナに攻め込みましたが。
その原因もいろいろな方が解説してくれていますが、一つにはプーチンが強いソ連を取り戻したいと思っている、というものがありました。
もしこの理由だとすると、歴史を知っているからこそ戦争を起こしていることになりますね。
また、この2.のような動機付けは、万人には向かないかもしれません。
何故かと言えば、戦争は悪、という前提に立っているからです。一応申し上げておくと、私は戦争をしたいとは全く思いません。しかし、ただの議論として「戦争は回避すべきものか」と考える自由はあるわけで、初めから「戦争は回避しなくてはならないものだ」という立場で押し付けられた上で学ぶ歴史は少し面白味が薄れるような気がします。

3.歴史は人類のあり方そのものであるから、歴史を学ぶことは人類を学ぶことである。

壮大で、講演なんかでは訴えかけやすい出だしです。
ツカミはオッケー、というか。
ただ、まじめに取り扱うには前提に不安があります。
人類のあり方ってなんだろう?それは歴史なのか?
このフレーズにおいては、歴史を科学や芸術、スポーツなどと変えても全く同じように通用しそうです。
つまり、何かいいことを言っているようで何も言っていない、そういう例です。
また、もし歴史を学ぶことが人類を学ぶことであるとしても、それで?ともなります。先ほどの戦争の場合と似ていますが。そもそも人類を学ぶってどういうこと?人類を学ぶといいことあるの?
こんなふうに問題がすり替わってしまうこともあり得ます。

4.歴史を知ることで、国民、民族としてのアイデンティティが確立する。

これはどうなんでしょう。私としては余計なお世話だ、というのがせいぜいです。
へたに国民とか民族とか言いだすから、諍いが起こるんじゃないの、とも言っておきます。

他にもいろいろな方がいろいろな形で歴史を勉強する意義、価値について言及していますが、どうしてもいずれも説得力に欠ける、と感じてしまいます。
私は中学生ではないですが、あるいは中学生ではなくもう大人だからこそ、実際、学校でやる歴史を覚えたところで訳には立たないでしょ、と実感してしまっているところがあることも影響しているでしょうけど。

さらに悪いことに、歴史というものは、科学と違って再現性がない、という致命的な弱点があります。
理科的な知識は、その気にさえなれば実験をして確かめられます。しかも、条件をきちんと整えれば、だれがいつ行っても同じ結果になる。こういうことを再現性がある、といいます。
むしろ、再現性がない現象は理科の教科書には載りません。
今現在、理科の教科書に載っていることは、全て再現性があって覚えておけばいつでも役に立てられる知識です。

一方、歴史の教科書に書いてあることは、再現できない。同じ状況を作ることができないし、仮に同じ状況を作れたとしても、結果が同じにはならないだろう、と想像できます。
つまり、書いてあることを確かめることができない。極端なことをいうと全部嘘かもしれないですよね。
さすがにそんなことないでしょ、とは多くの方がおっしゃるでしょうけど、だって、どれも昔の誰かが書いた記録を頼りにしているだけですよ?
現代では小説があふれていますが、昔だってそうだったかもしれない。正式な記録、と思われているものでも、ただの創作物かもしれませんよね?
少なくとも、記録係の人だって、基本的に自分に都合の悪いことは書かないでしょうし、全てを知っていたわけはないから、ある程度想像で補ってもいたのではないでしょうか。
数百を超える文献で同じことが書いてある、という出来事もあるでしょうけど、だからといって本当にその出来事が書いてある通りであったかは別の話です。
こう言ってしまうと、もはや歴史を勉強する意味はないと言わざるを得ない気がしてしまいます。

最後、少し激しいことを言ってしまいました。
結論は初めの方に述べた通りで、歴史を学ぶのは勉強のトレーニングをしているのだ、というのが一つ。
それともう一つ、ここまで全く触れませんでしたが今思い付きました。言葉のトレーニングでもあるかもしれません。歴史用語だって言葉ですから。これを人に説明したりするのは、言葉のトレーニングになりますよね。数学や理科を題材にすると、用語の説明の途中にも説明の必要な言葉があるのが普通ですから、トレーニングの素材としては使いにくい。歴史用語なら、物語みたいなものですから、語りやすいですよね。語り部です。
いずれにせよ、歴史そのものを覚えることが目標ではなく、学習能力を高めるために歴史を素材にしているのだ、というのが教える側にも教わる側にもちょうどいい認識かもしれませんね。

ずいぶん長くなってしまいました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。